- 小さな子どもでも、ハンセン病と診断されれば療養所に入らなければなりませんでした。
- むかしの療養所には子どもの患者さんがたくさんいましたが、第二次世界大戦が終わってからしばらくは、療養所に正式な学校はなく、おとなの患者さんが、子どもたちに勉強を教えていました。
- 遠い故郷にいる家族に手紙を書きたい、家族から来た手紙を読みたい、という思いで、いっしょうけんめい字を学びました。
- 治せる薬が出来てからも、療養所の外にある学校へは通わせてもらえませんでした。療養所の中の学校が公立学校(義務教育)の分教室※として認められ、本校からやってくる先生と、おとなの入所者が勉強を教えました。
- 1955年、岡山県の長島愛生園に開校した「邑久高校新良田教室」には、全国から青少年が集まりました。卒業したあと、社会復帰した人もたくさんいます。ただ、社会に出た後も、差別をおそれて療養所にいたことを隠さなければなりませんでした。
※分教室・・・家から学校までが遠くて通学できない、事情があって家の近くの学校に通えない、などの事情で学校に通うことの難しい子どものために、地域の学校の「分校」としてつくられた小規模の学校。